織田文化歴史館 デジタル博物館

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織田文化歴史館の無料開館と特別公開が始まりました。

 「令和」改元を記念し、1日(水・祝)から6日(月・振替休日)まで無料開館します。期間中には、劔神社と越前町が所蔵する古文書を特別公開します。古文書は「織田信長安堵状」(『劔神社文書』)、「豊臣秀吉朱印状(領知充行)」(『桃井雄三家所蔵文書』)、「結城秀康黒印状(領知安堵)」(『桃井雄三家所蔵文書』)の3点です。

 「織田信長安堵状」(『劔神社文書』劔神社所蔵)は、織田信長が朝倉氏を滅ぼして越前を掌握した直後、信長が劔神社・織田寺に対し、土地の領有や臨時の税の免除など認めたもので、文書の裏側に、信長の「天下布武」の印が押してあります。普段は複製品の展示となっていますが、6日間限定で実物を展示します。

 「豊臣秀吉朱印状(領知充行)」(『桃井雄三家所蔵文書』越前町所蔵)は、豊臣秀吉が慶長3年(1598)7月、越前町朝日地区発祥の「幸若舞」の祖、桃井直詮の子孫である小八郎家に送った書状で、検地の結果、45石増の345石を与えると書かれています。

 「結城秀康黒印状(領知安堵)」(『桃井雄三家所蔵文書』越前町所蔵)は、結城秀康が3年後の慶長6年(1601)に幸若家に送った書状です。宛先はありませんが、秀吉の朱印状の内容を秀康も認めるとの内容になっています。

 ゴールデンウィーク6日間だけの特別展示となります。この機会に、ぜひご覧ください。
展示風景 
 以下は、展示解説となります。

「織田信長安堵状」(『劔神社文書』)

 天正元年(1573)八月、織田信長は朝倉氏を滅ぼし越前国を掌握すると、10月には先祖の地である織田庄剣大明神寺社中に対して安堵状を下した。織田剣大明神の神領、同末社領ならびに坊領、同社家の田畠山林などについて、旧来のとおり領有することを認めるということ、この外に臨時の課役を禁ずること、また検断などは寺社において行うことなどを命じた。そして末代までも、この命に相違があってはならないという書状である。信長が黒印を紙裏に押しているのは、剣大明神に対し、謙譲の意を示しているものである。

「豊臣秀吉朱印状(領知充行)」(『桃井雄三家所蔵文書』)

 幸若舞は、日本中世を代表する芸能である。鎌倉時代の曲舞を源流とし、室町時代に桃井直詮が創始したと伝えられる。直詮は越前国丹生郡法泉寺村(現在の越前町宝泉寺)で生まれ、若くして比叡山に登って音曲を学び、天皇の御前で披露した。「幸若舞」という名称は、直詮の幼名「幸若丸」に由来する。幸若舞がもっとも隆盛したのは、戦国時代のことである。織田信長(1534~82)の幸若舞愛好は有名で、永禄3年(1560)桶狭間出陣前に「敦盛」を舞っている(『信長公記』)。また、幸若八郎九郎家に100石の領地を与えた(「織田信長朱印状」)。本文書は、豊臣秀吉(1537~98)の領知宛行状である。秀吉も幸若舞を好み、自分の手柄話を題材に「三木」や「本能寺」を作曲させた。秀吉は慶長3年(1598)8月18日に没しており、死の直前に朱印状を発給したことがわかる。また、朝日村(越前町朝日区)・けい庄(越前町気比庄区)へ345石を与え、うち300石が本知(元々の知行所)、残り45石を今度の検地により加増するとある。検地によって石高を加増する事例は少なく、幸若家への信頼や期待の大きさがうかがえる史料といえる。

「結城秀康黒印状(領知安堵)」(『桃井雄三家所蔵文書』)

 本文書は、越前藩主・結城秀康(1574~1607)の領知安堵状である。文頭の「御朱印前々よりの如く拝領しなさい」は、「豊臣秀吉朱印状」の内容について秀康も認めたことを表す。宛書はないが、本文書が敦賀幸若家である桃井雄三家へ伝わることから、幸若小八郎家へ発給された文書と考えられる。おそらく弥次郎家・八郎九郎家にも同様の文書が発給されたのであろう。なお、小八郎家は幸若三家(ほかに弥次郎家・八郎九郎家)のひとつで、江戸時代には幕府に345石で仕え、地元で「南様」と呼ばれた。小八郎家の7代・安林の子である常義は、敦賀幸若五郎右衛門家の祖として知られる。